タイ王国。ほほ笑みの国。
そのタイ西部・カンチャナブリ県に向かったのは、
もう10年くらいも前のこと。
第2次世界大戦中、
その前線に軍事物資を運ぶため、1942年、旧日本軍は、
タイとミャンマーをつなぐ全長約400キロの鉄路建設に着工した。
それが「泰緬(タイメン)鉄道」。
着工からわずか1年余りで開通させた。
現在もその一部が、
タイの首都バンコクから西へ約120キロ(列車で2時間ほど)のカンチャナブリ県にある。
バンコクでローカル線の切符を買い、
水と、食事代わりに少しの菓子、果物をバッグに詰めて、
鉄路、カンチャナブリへ向かった。
泰緬鉄道の建設は、当時、過酷を極めたという。
目指した「クワイ川鉄橋」は、長さ約100メートル。
泰緬鉄道建設に際して直面した、数々の工事難所の一つとされる。
列車がバンコクを出てからカンチャナブリまで、
途中、のどかな田園風景が続いたかと思うと、
切り立った断崖絶壁の際を列車が走る。
多くの乗客がカメラを向ける情景で、
硬い岩盤を削り開き、鉄路を築いた様が思い浮かぶ。
その過酷な労務に動員されたのは、
旧日本軍の捕虜だった連合国軍兵士をはじめ、
タイ、ビルマの人々。
厳しい労働、マラリア、食料不足、栄養失調などで、
10万人以上の人々が亡くなったとされる。
犠牲になったのは、その方々をはじめ、日本人も。
そうした犠牲者を追悼しようと、日本人によって建てられた慰霊塔もある。
そんな背景を持つ泰緬鉄道で、
映画「戦場にかける橋」でも描かれた、戦時の象徴の一部だ。
泰緬鉄道は、建設のために多くの犠牲を生んだことから、
「Death Rail Way(デス・レイル・ウエイ)=死の鉄道」の名称がある。
その橋を、その現地を一目見ようと思ったのが、
カンチャナブリ行きのきっかけだった。
いま、その泰緬鉄道を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録する動きが彼の国で始まっている。
泰緬鉄道の一部、「クワイ川鉄橋は」、
列車が走らない時間帯なら、
乗客が歩いて対岸まで渡ることもできる観光名所的な面をもつ、
戦史の跡地でもある。
親日国でもあるタイでは、
世界遺産への登録をめぐって、
「死の鉄道」の名称を使うか否かで、
日本人の心情を忖度(そんたく)し、
賛否の両論が出ているという。
世界遺産への登録が進めば、
泰緬鉄道への注目度は増して、観光客も増え、
「死の鉄道」の名称とともに、旧日本軍がどうあったかについても、
あらためて説明されることになるだろう。
「日本を責めるつもりはないが、歴史の事実」。
「『Death Rail Way』の名称は、国際的に認知されている」。
「『死の鉄道』との表現を使用すれば、タイと日本の外交関係に摩擦を引き起こす」。
カンチャナブリで、さまざまな懸念と意見が上がっているという。
「人類が二度と、このような過ちを繰り返さないようにすることが、登録の目的」と当局。
歴史を振り返るとき、そこには、何らかの意味を見い出したい。
日本人の感情までを推し量ってくれる寛容に感謝しながら、
歴史が残した足跡を真摯(しんし)に見詰められたら、と思う。