こんにちは、halukaです。
日射しが降りそそぐ日中、
手のひらを太陽の方角に向けて、
まぶしさを覚えるまぶたを手の甲で覆いながら、
ほんのしばらくの間、太陽光線をみつめてみる。
そうしますと、
自分の手の指の間を走る、退化した水かきの辺りに、
はるか彼方から、この地球に届く太陽の光を “見て取る” ことが出来ます。
もっとカッコいい何かしらの道具もあるのでしょうけれど、
何かのお誘いをいただいたり、
何かの始動に迷っていたり、
誰だか気になる方がいたりするときに、
太陽のその光は、
「やってみたら、どうかしら」と、
そんなふうに背中を押してくれそうで、
予期しなかった元気が湧いてきたりもします。
【写真AC】
「自分を知る」ということは、
「どうやって、知ればいいのか」
「どうすれば、知ることができるのか」ということも含めて、
つまり、その方法からして、簡単には見つからずに、
その方法が見つかったとしても、
それが難しい方法だったりしたら、
取り組むことさえ容易ではない、
私には、「自分を知る」ということは、
そう簡単には思えない事柄の一つです。
【写真AC】
もう一つ。
心の鍵の解放。
そうと、意識はしていなくても、
人というものは、知らず知らずのうちに、
他を排斥し、あるいは他を否定し、さらには他を疎んじ、
自分の視界に入れないことさえしてしまうことがあるようにも、思います。
心というものが、人体に備えられているのなら、
他の臓器や血液や脳や皮膚のように、触ったり、見ることが出来たり、
移植することができたり、ドナーとなることが出来るのでしょうか。
備えられているのに、触ったり、見たりすることが出来ないのならば、
せめて、自由にさせてあげたい。
そう願いながら、今宵はキーボードを離れてみます。