こんにちは、halukaです。
寒い時節が続いておりますが、
皆さま、どのようにお過ごしでしょうか。
今宵は、「おすすめの勉強法はある?」という、
とっても素敵なPR記事の募集をみつけましたので、
そのことを主題にして、
なにかしらを綴ってみようかと思います。
生来、本を読むこと、すなわち「読書」が大好きです。
それが高じて、
「世界文学全集」全巻などを未だ、書棚に据え置いている、
断捨離のできない性格です。
世界文学全集ならばまだしも、
分かりもしない科学や化学や工学や宇宙理論や、
古代の歴史について延々と、その成り行きが綴られた大書や、
ファッション雑誌や、
もちろん、大好きなサーフィンにまつわる書物まで、
まあ、自分でもあきれるほどに、
有名無名の本が自室に並んでおります。
【写真AC】
「書」というものは、現代では、
いったん “原稿” が書かれた後は、
いわゆる「機器」によって、書物化され、
あちらこちらに出回ることになります。
そこに書かれている物事は、
おおよそ真理、あるいは真実である場合もあれば、
まゆつば物である場合も無きにしも非ず、ではあります。
では、どうすれば、真理、真実であるのか、
あるいは、
まゆつば物であるのかを見分ける事が出来るのかと申しますと、
それは「自分で調べてみる」「自分で実践してみる」
「自分で、そこに行ってみる」「自分で味わってみる」という具合に、
とにかく、「自分でやってみる」しかないのではないのかしらと、
そんなふうに思ったりもいたします。
【写真AC】
例えば、教科書。
国語、数学、理科、社会、物理、古文、倫理、語学…
挙げれば、きりがありませんが、
そうしたあらゆる分野の教科書の1ページ、1ページ、
1行、1行、もっと申し上げれば、1文字、1文字によって、
「これは、こうですよ」と書かれていることは、
「どうやって、そうだと分かったのか」。
「だれが、どうして、そうなるのだと、見つけたのか」と、
馬鹿馬鹿しいのですけれども、
「1+1」は、なぜ「2」なのか。
そんなことを、発見したのは、どこのどなたで、
どうやって、その概念を確立したのか。
「0」は、どこのお国の方が、どうやって見つけて、
それは、いったいどういう意味だと、どんな言葉で解説したのか。
そういうことを、一つ、一つ、丁寧に探っていきますと、
とてもではありませんけれども、
一生かかっても、教科書の1冊さえ、読み取ることは、
なかなか容易ではないほどの “学習” の成果を生むように思います。
自律的な学習を積み上げて、驚くべき速さと緻密さで、
成果と正解を導き出してみせてくれます。
ただし、AIが面白みに欠けるのは、
「失敗を犯さないこと」「ケアレスミスをしないこと」ではないのかと、
私は、そんなふうに思ってもおります。
人間は、なぜだか、どんなに学んでも、
「失敗を犯し」「ケアレスミス」を “実践” してしまいます。
「してしまいます」と書きましたが、
「することが出来ます」と、実は書きたい次第です。
「失敗する権利」「失敗する自由」は、
halukaスタイルの旅探しでは、
何かしらの法律で保障してほしいほどの、
とっても大切な権利であり、
自由であるように思っていたりもいたします。
その自由と権利を最大限に生かし、
そこから、新しい何かを見つけし者こそが、
次の時代の英雄として育ち、旅立ってゆくのではないのかしらと、
そんなことを思う真冬の一夜です。