halukaブログ

やっぱり海が好き!

自分流「旅のスタイル探し」。「人生という短くはない旅路に運とか不運はつきものなのかもしれませんが、それを幸と呼ぶか不幸と呼ぶかは人それぞれだったりもするのでしょうか」というお話。

今週のお題「大切な人へ」

 

こんにちは、halukaです。

 

人生を “旅” とか “旅路” に例えてみせる、

なんだかほっとする、

エッセイや小説やポエムに出合うことは少なくありません。

 

幼少の頃に読み通した「世界文学全集」を

いまだに自室に置き飾っている辺り、

私自身も、小説の中に見る夢や冒険を、

幼いなりに “人生” のようなものに映し替えていたのかもしれません。

それだけに、いまでもなお、

そんなセンテンスが描いて見せる、

夢や冒険といったファンタジックな心持ちを忘れられずにいるのかもしれません。

 

話を現実に戻しますと、

実際に人生という毎日の時間の積み重ねの中では、

「ラッキーだった」だとか、「アンラッキーだった」だとか、

つまり、運、不運と名付けてもいいような場面というものは、

起こり得るもので、

「もう少し早ければ」だとか、

「こっちじゃなくて、あっちを選んでおけば」だとか、

「あのとき、あの失敗さえしなければ」だとか、

それを思い出し始めると、切りがないようにも思います。

 

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  【写真AC】

 

人と人との出会いにも、似たような交錯があるようで、

「あの人と出会ってさえいなければ」だとか、

「あの先生にさえ出会っていれば」だとか、

「この人と出会えて、ほんとうに良かった」という雰囲気の気の持ちようは、

“その瞬間” つまり、出会っていきなり感じる物思いとは少し違って、

しばらく時間が経つなり、顔を合わせる回数を重ねるなりして、

ようやく気づく、と申しますか、後悔したり、反省したり、

悦びを感じたりするもののように思います。

 

出会った瞬間、「良か」「良でないか」の分別が付くのは、

その出会いによって、

即座に心身に傷を受けたり、

大切なものを奪い取られてしまったりするような、

神をも恨みたくなる物事に巻き込まれたような時で、

それは、ほんとうに誰かの助けを求めたり、

誰かが助けに駆け付けたりしなければ、

なかなか立ち直ることが難しい出来事に見舞われることがあるのも、

それも現実なのだろうと、思います。

 

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  【写真AC】

 

そんな大変な思いをする出会いとは少し、違いますが、

たとえば、赤ん坊の誕生。

母も父も、その母と父、つまり祖母や祖父も、

今日か、明日かと、その出会いを心待ちにして、

時を待つような、そんな出会いもあることでしょう。

「子どもは親を選べず」などとも申しますが、

そのような出会いにもまた、運と不運があるのかもしれません。

 

そうした、生きる自然が為す出会いとは別に、

進級や卒業や進学や就職…といった社会生活を支えていく出会いや別れも、

令和2年の2月も、もう後半を迎えた、この時節、

3月、4月やらの間、増えることでしょう。

人の移動、異動も増えるということは、

言い換えますと、出会いや別れが増えるということは、

「この人に出会って良かった」とか、そうではない、とか、

そういう機会が増えることとも、切り離せないようにも思います。

 

そうした機会のひとつ、ひとつを、

「幸」と呼ぶのか、あるいは「不幸」と呼ぶかのは、

その後、自分自身が、どんなふうに人生という旅路を歩んで、

いつか、その足跡を振り返ったときに、

ようやく、見つかる答えのひとつなのかもしれないと、

そんなことを、これから新たな旅に発つ方々に、

心から、「幸多かれ」と、

エールのつもりで、お贈りしたいと思う次第でいたりもします。

取り留めもない拙文とはなりましたが、

明日、2月19日、二十四節気のひとつ「雨水(うすい)」は、

空から降る雪は溶けて雨となり、

地表の氷は解けて水となり、

春一番が吹く頃を指す、春候の意味さえ持つようですから、

その春気分を前に、大切な大切なあなたへ、

今宵のhalukaブログからのほんのささやかなつぶやき話だと、

そう受け取っていただけましたら、幸いです。

 

 

春一番

春一番

 

 

 

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