こんにちは、halukaです。
私が師と仰ぐ先生との将棋対局は、先週、
私の勝手な都合でお流れとなり、
私のあがきの駒さばき、あるいは、
もがきの駒さばきを楽しもうと、
間違いなく、
手ぐすねを引いて対局に備えていたであろう師の思惑は、
私にとりましては幸いにも、外れたことになります。
とは申しましても、師との日頃の会話は、さすがに師、だけあって、
なかなかに奥深く、将棋対局に及ばない日でも、
師と交わす会話から、「ふむ、ふむ、ふむ…」と、
学ぶことは少なくはありません。
たとえば、このような具合。
「僕はね、将棋の本などはあんまり読んだことはないんだけどね、
ある本にね、
『とにかく攻めて、攻めて、
相手が嫌になるまで攻め抜くことが、将棋に勝つコツのひとつだ』と、
そう、書いてあったんですよ」。
(なんだ、しっかり、読んでるじゃないですか…( 一一))
【写真AC】
あるいは…
「先生、私、写真を撮るのが好きなんです。
いつか、世に発表をしてみたいとも思うのですが、
いかがでしょうか?」
「うん、それもいいんじゃないですか。
世には、あんまり冴えない作品も出ていることだし、
あなたもやってみると、いいよ」
(先生、それはつまり、挑戦してみせよと…)
考えてみますと、
未来を知る、というようなことは、そうそう容易に叶う技ではなく、
そこに向かって、歩くなり、走るなり、這うなり、
とにかく前に進んでみないことには、
誰にも分かりはしないものかと、そんなふうに思うところです。
【写真AC】
いつ頃からなのでしょうか、時折、
「勝ち組」だとか、
「負け組」だとかいう言い回しを耳にすることもございますが、
そもそも私が、
その概念を理解していないせいもあるかとは、思いますけれど、
それは、どのような姿を指すのか、
今のところ、まだ分かっていない次第です。
「どうせ、私なんて…」というような言い回しも、
これは古くから、耳にしたりもいたしますが、
そういう捨て鉢と申しますか、
投げやりは、あまりしないで、
「いや、いや、私は、やっぱり必要でしょう!」と、
それくらいの気持ちでいても、ふだんはそれでいいのかなと、
思ったりもいたします。
私が断言しても良いのであれば、断言をいたします。
「あなたは、必要です」。
「必要のない方など、いやしません」。
なぜなら、「生来、一度もだれにも負けたことはない」
「この先も、一切、だれにも決して、負けることはない」
と、未来のことなど、だれにも分かりはしないというのに、
そう言い切る筋立てが成り立つようでしたら、
それは、その未来は、
光輝く挑戦に満ちた未来だと言うよりは、
もう、何かの線なり面なりが出来上がった、
新鮮さをあまり感じさせない、つまり、
背中から吹く順風に押されて向かう未来のようで、
自分の真正面から、
高々としたその鼻っ面を押しつぶそうと向かってくる、
逆風の嵐に立ち向かう未来とは、
少し違うのかなあと、そんなことを思うのです。
こういう言い方は、きっと、言い過ぎなのだろうなと、
反省もしながらの拙文ですが、
私の師いわく、
「若いころね、学生だったころ。
2月は寒いかなんて、そういうことは、なかったね。
近場にね、深い森があってね。
その森を下駄でね、がらがらがらっと、歩くとね、
あったかくなって、寒くなんてなくてね、
あっと言う間に、そこに着いたものですよ」。
「ふむ、ふむ、ふむ…」。
先生、私も、がらがらがらっと、歩いてみることにします。